1.「盧溝橋事件」、「通州事件」、「第二次上海事変」、「首都南京攻略」という経緯は、中国を侵略するという目的ではなく、発端はあくまでも、日本人居留民保護のために止むを得ず、我が国政府が軍隊を増派(追加派遣)したということなのだ。本来日本人を守るべき中国人保安隊3千人が、日本人約420人を突然襲撃し、拷問あるいは強姦の末、約260人を惨殺した。
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2.「支那事変(日中戦争)」を単に日本が中国領土に侵攻したものと認識している日本人も多いが、歴史的事実は決してそうではなかった。 1946年までの中国には租界というものがあった。租界は阿片戦争後の不平等条約によって各地の条約港に設けられた行政自治権や治外法権を持つ外国人居留地。
3.中国に「租界」を有していた列強は、イギリスを始めとして、日本、アメリカ、フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、ロシア、イタリアなどで、それぞれの国が自国の居留民保護のために軍隊を駐留させていた。外国人居留地は、列強が外交上の交渉で清国から得た権益で、後に中華民国に継承されたわけであるが、この治外法権を持つ居留地を、中国の官憲には保護する義務があったにもかかわらず、彼らは軍隊組織、警察組織としての体をなしておらず、彼ら自身が昭和2年(1927年)、日本人が虐殺された。
4.我が国にもかつて、横浜や神戸に外国人居留地が存在した。 安政年間(1858年)に日米修好通商条約を始めとして、英仏露蘭と修好条約を締結した。 この「安政の五カ国条約」により、東京と大阪、箱館、神奈川、長崎、兵庫、新潟の5港を開港して、外国人の居住と貿易を認めた。
5.開港場としては、横浜と神戸のみであったが、居留地は長崎や築地などにも在り、外国人が一定区域の範囲で土地を借り、建物を購入し、あるいは住宅、倉庫、商館を建てることが認められ、治外法権とされていた。 日本の場合は条約改正の外交努力により、1899年には見事にすべて回収した。
6.経緯は侵略目的ではなく、発端はあくまでも、日本人居留民保護のために止むを得ず軍隊を増派(追加派遣)した。たとえて言えば、幕末、居留地を守るべき幕府の軍隊が治外法権を持つ横浜の居留地に侵入し、小規模の英軍を撃破、略奪の上、外国人に陵辱を加え、虐殺したとする。
7.居留地は幕府の大部隊に包囲された状態が続くとする。当然、英本国政府は自国民保護のために艦隊を派遣し陸兵も増派する。増強された英軍と幕府軍との交戦があり、幕府軍は江戸に潰走した。そこで、英軍は禍根をたつために、江戸府内にまで追撃し、幕府軍を江戸から駆逐したとしよう。要するに、日支の武力衝突が泥沼の戦争状態にまで発展した構図というのは、正にこういうことであったわけなのである。このたとえ話の江戸が、実際の「日中戦争」においては南京であった。
8.1000人の中国人と500人の朝鮮人によって、尼港在住の日本人約800人が陵辱の上、虐殺された尼港事件も殆ど世に知られてはいない。昭和12年12月に日本軍が陥落させた南京で大虐殺が行われたという南京事件だが、昭和2年3月に、蒋介石の北伐軍が南京に攻め込んだときに日本人が虐殺された「もう一つの南京事件」も「済南(さいなん)事件」 も語られることは皆無に等しい。
9.昭和12年12月の南京陥落当時も、その後も日本軍が民間人を何10万人も虐殺したなどという証言も報道もなかった。昭和21年から始まった東京裁判で、突如、ユダヤ人大虐殺に類似した事例として、針小棒大に作り上げられた「南京事件」だ。「南京事件」における虐殺現場の証拠写真とやらも、南京とは無関係であったり、加害者が日本軍でないことが判明している写真なども増えている昨今である。 はっきり言うが、あの淫虐極まりない猟奇的な惨殺方法は、中国人の人の殺し方だ。中国人お得意の惨殺パターンなのである。