1.西洋の社会は罪の文化で、人間は自分たちの行為は常に神が見ていると思い倫理的に正しい行為をしようと努力するものだ。「菊と刀」では日本人は誰かに自分の悪行が知られたら、非常に恥ずかしさを感じ、その結果、死さえ厭わないと、彼女は「恥の文化」を悪意をもって解釈している。
2.ルースの立場では、日本に対する侵略戦争を許すわけには行かないという東京裁判を指導する哲学を語っただけだ。罪の文化も恥の文化も、実は同じ事を表からか裏から見ているに過ぎない。神が見ていようが、他人が見ていようがその本質は、全く同じことだ。むしろ神などを持ち出すことがおかしい。
3.他人が見ていようがどうしようが、自分に対し恥ずかしくない事をするほうが、その価値は上である。場合に寄っては罪をおかすかもしれないことでも、人助けをすることがある。そのような行為は歴史的には数多い。例えば、戦時下でのユダヤ人救済などである。大本営の意思に反した行為でもしてきた。
4.高潔な行動や義挙を枚挙に暇がない。「武士は喰わねど高楊枝」「恥を見んよりは死をせよ」「人は一代、名は末代」。恥を表す日本語は非常に奥が深い。例えば「居心地が悪い」「格好が付かない」という微妙な心理を表す語は英語にならない。このような洗練された感覚表現は日本語を豊かにしてきた。
5.功がある反面、罪もある。世間の目を恥じるということは、世間の目が変われば自分の恥の感じ方も変わる。それは柔軟な生き方といえばいえるが、狡い功利的な生き方ともいえる。神、正義など絶対的な価値観を生き方の拠り所にする欧米人の目には、そう映る。彼らは、そう簡単には妥協しない。
6.西洋の「罪の文化」に対し、日本を「恥の文化」とした。西洋における罪の意識はキリスト教に寄っている。罪を犯した時には、神が見ていて隠しようがない絶対的な規範となっている。ところが、南米でのスペイン人、北米でのイギリス人の現地人に対する大量虐殺が神を担いで正当化されてきた。
7.恥の文化は戦後の日本でも、復興のよりどころだった。また、高度成長期での企業における企業文化の形成にも寄与した。金儲けでも、品質管理でも、自分に愧じるような行為は避けてきた。ところが、国際標準のISOでは、規定どおりの仕事をすれば、恥も外聞もなく仕事が出来たことから、日本的品質管理の崩壊が始った。