ある女子大教授の つぶやき

日常の生活で気がついたことを随想風に綴ってみたいと思います。
統計学のブーム
 1.ガウスは「誤差はどうしても生じてしまう」 という前提のもと「誤差がどの程度の確率で生じるかを計算することができれば測定の精度をあらわすことができる」と考えた。そうして平均値と標準偏差によって形状が定まる分布の公式がつくられた。これが正規分布の原型だ。
続きを読む >>
| 学問 | 05:32 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
因果関係の証明
因果関係の証明
  健康情報番組では実験したデータをそのまま使って、少しでも差があれば効果があったなどとしている。人間の体は複雑だから、新しい風邪薬でも効く人と効かない人があり、どの程度の試験データで新薬と認めることができるかは統計的な判断に任せることになる。
 

続きを読む >>
| 技術 | 05:00 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
放射線について
日常生活の放射線量

  

  1.これまでの自然放射線による年間被曝量は、もともと日本は世界平均の2.4ミリシーベルト(mS)と比べても低くて1.5mSだ。毎日発表されている新宿駅付近での値は1mSにも達していない。世界にはこの値が10mSという地域がブラジルやインドに存在している。これらの地域での健康調査が過去何回かWHOで行われているが、他の地域との有意差は認められていない。1960年代から70年代にかけて、米ソ冷戦時代に核実験が両国で1700回、世界全体では2200回も行われた。その時の値は、日本でも平常時の100倍から1000倍になっていた。現在もこの時の影響が残留している。

続きを読む >>
| 科学 | 05:30 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
素数と素粒子(2)
 4.オイラーの初めの式では、mは2だったが、リーマンは複素数にまで拡張した。このゼロ点は一直線上に並んだ。「ゼータ関数の自明でないゼロ点は、その実部がすべて1/2の直線上にあるだろう」(1859年)と言うのがリーマン予想だ。 この予想は未だ証明されていない。
続きを読む >>
| 学問 | 05:46 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
素数と素粒子(1)
 1.原子核の中に自然界の最小単位である素粒子がある。それが宇宙の基本法則を司る。素粒子の世界を表現する式と、単なる数字の羅列だと思われてい た「素数の並び方」が、密接に関連している。こんなに驚愕すべき事がまだこの世界には未知の領域として残されている。
続きを読む >>
| 学問 | 05:43 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
誇るべき事業
 1.台湾は1895年、朝鮮は1910年、満洲は1932年に日本は領有した。欧米流の植民地支配とは異なり、実質的に国内統治の原則をそのまま適用した。だから、人も金も送り込んで、いずれも近代国家としての体制を整えていった。それはガス電気のインフラに始まり、鉄道、道路、行政、教育などすべてにわたっている。

続きを読む >>
| 国際関係 | 05:47 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
司馬史観
 1.司馬遼太郎の作品はその殆どが面白くて読み始めたら止まらない。彼が創作する小説はすべて天才の産物としか思えない。特に幕末から明治にかけての歴史ものがそうである。歴史上の人物が実名で登場しているから、史実に忠実に描かれているものと誤解する人が多いが、あくまでも小説と思うべきだ。
 
続きを読む >>
| 歴史 | 05:31 | comments(1) | trackbacks(0) | ↑TOP
満洲について2
 1.満洲国は台湾、朝鮮と同じく、戦前の日本の植民地とみなすことが通説だが、正しい歴史認識ではない。中国人は万里の長城以北の満洲は中華とは異なる別世界とみなしてきた。絶対不可分の固有領土という主張は20世紀になってからだ。そして孫文は日本に満洲の売却を申し出た。
続きを読む >>
| 国際関係 | 05:20 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
満洲について1
 1.清王朝は満州族(女真族)出身の愛新覚羅氏が1636年に建てた王朝だ。 明王朝に代わって中国を統治した後、1912年の辛亥革命で滅亡した。中国の歴史上では征服王朝の一つだ。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。1932年3月に満洲国が復活したが、1945年8月に日本の敗戦とともに滅亡した。
続きを読む >>
| 歴史 | 05:34 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
終戦後の戦い
 1.ソ連は、日本がポツダム宣言を受諾(8月15日)したあとも樺太での武力による侵攻を やめず、日本人 に多数の犠牲者が続出したので、日本軍は自衛戦争を継続し、その 戦いは8月25日すぎまで続いた。戦闘は激烈を極め、日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名におよんだ。

続きを読む >>
| 国際関係 | 05:33 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
SPONSORED LINKS
PROFILE
LINKS
CALENDAR
S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2013 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
新着コメント
新着トラックバック
MOBILE
qrcode