ある女子大教授の つぶやき

日常の生活で気がついたことを随想風に綴ってみたいと思います。
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井伊直虎のこと
1.井伊直虎は1535年頃、遠江国の井伊谷(いいのや)で生まれた。父は井伊家22代宗主の井伊直盛で小領主。母は新野親矩の妹で、新野家は今川家一族の出身、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元の親戚に連なる。井伊家と今川家は結びつきが強かった。今川は直虎の地元・遠江のスグ隣だ。
2.井伊一族は常に今川の強い影響を受けて戦国の世を生き抜き、時には味方、時には敵となる。最終的に井伊家は直政が跡を継ぎ、家康の下で大出世を遂げた。井伊直虎は直政が家康に仕える事になった背景となっていた。井伊家をあげて直政を育て、直政も井伊の赤鬼として期待に応え彦根30万石の大名となった。

3.井伊直虎のポイント◆直虎の実家・井伊家は浜松を本拠とした国衆(小領主の)だった◆22代当主直盛(杉本哲太)の娘◆親戚で直親(三浦春馬)と直虎は婚約◆井伊家の男性が次々に死に、直親は今川家に命を狙われて逃亡◆帰国した直親はひよ(貫地谷しほり)と結婚。
4.直親&ひよの子・直政の面倒を直虎が見た◆井伊直政は家康のもとで大出世、 後に彦根藩の藩祖となる。安政の大獄や桜田門外の変で知られる井伊直弼はその子孫◆井伊家の最初の600年は浜松。徳川四天王の一人・直政や、その子孫であり江戸幕府の大老直弼が有名、井伊家は直政から始まる。

5.井伊直虎は22代宗主・直盛の娘で、24代宗主・井伊直政の後見人だ。直虎は女性だから、宗主として系図には載せられず、それでいて実質的に井伊家存続の危機を救った人物だ。直政も直弼も、ひいては徳川家の栄光も彼女の存在なくして運命が変わっていた可能性がある。
6.嫡流の22代宗主直盛に嫡男がいなかった。直盛の娘(直虎)と直親を結婚させて御家を存続させるという方法だ。井伊の本拠地・井伊谷は遠江国に位置し、駿河は今川の支配下、西の三河は徳川、北は信濃国の武田、南は浜名湖を通じて太平洋。そのポジションが非常に過酷であった。

7.井伊家の男たちは次々に謀殺されたり戦死した。直虎が生まれた1535年頃から、彼女が女地頭(おんな城主)となる1565年までの30年間で生き残った一族は、直虎自身と井伊直政、そして築山殿(徳川家康正室)を産んだ姫、血の繋がりのない住職・南渓瑞聞の4名ほどしかいない。
8.1565年、直政はまだ5歳で、井伊直盛の娘・直虎が、男勝りの名前を掲げて女地頭(女城主)にならざるを得なかった。直虎については史料として直虎の書状については僅か数点のみと少ない。許婚者の直親が信州・松源寺へ逃亡し出家した。井伊家に対する殺害命令は直満の子である直親にも下された。

9.直親は直虎の許婚者であり、婚姻後は井伊家宗主の候補者でもあるが、上級権力者である今川に命を狙われて逃亡した。直親は病死と発表して渋川の東光寺に身を隠し、そこから信州市田郷の松源寺への逃亡を果たす。許婚の死を聞いた直虎は小野との縁談を断って直親への愛を貫き、自ら断髪、出家した。
10.帰国した井伊直親は、井伊直盛の養子となり、次の宗主の第一候補となった。つまり直虎とは姉弟(兄妹とも)の関係になった。迎えた1560年、戦国史に残る最大の逆転劇、桶狭間の戦いだ。
11. 龍潭寺(りょうたんじ)は井伊直虎(次郎法師)、井伊直親、井伊直盛の墓がある井伊氏の菩提寺、733年(天平5年)、行基によって開かれたと伝わる臨済宗妙心寺派の寺院。さらに1560年に「桶狭間の戦い」で戦死をした井伊直盛が葬られると直盛の法号から龍潭寺と改められた。
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