ある女子大教授の つぶやき

日常の生活で気がついたことを随想風に綴ってみたいと思います。
満洲は誰が開拓したか(1)
1.日本軍が大陸を侵略したのではなく、実態はむしろ民間活力が先行していた。偕行社の会報誌「偕行」に掲載されている。上海支店長に就任した山本条太郎は商社マンとして、はじめて満洲に乗り込んだ。当時の満州は、広大な荒れ地が広がるだけの緑のない半ば砂漠地帯だった。
2.作物など作れそうもない荒野だった。だがこの荒れ地で、細々ながら大豆が栽培されていることに目をつけ、大豆は温帯、亜熱帯産の植物だから満洲は亜寒帯で気象条件が合わない。だが、有機物を栄養源にするから大豆は痩せた土地でも育つから、これに目を付け満州での大豆の栽培の可能性を探った。

3.生産のめどもたたない段階で、1920年には、英国に赴き欧州での満洲大豆の独占販売権を得た。山本が満鉄総裁に就任した27年には、満洲の大豆生産高は年間500万トンに達した。この内、欧米向けが200万トン、日本向けが二〇〇万トン。満洲は世界最大の大豆生産国になった。
4.1905年日露戦争勝利で長春から旅順口までの鉄道全ての権利を手に入れた。そして翌年には満鉄を設立した。露は支那や朝鮮、日本への軍事侵攻、南下政策のために鉄道を建設した。日本は民生用、つまり満州の産業育成のために用いた。大豆は作れば作るだけ売れ収穫量の八割以上が輸出された。

5.二十年前の荒野は一大農園地帯に変貌した。満州に住む農民は大豆と小麦を売り、自分たちはトウモロコシやアワを食べた。大豆は満洲にとって、黄金となった。当時、満州の対外貿易の半分強が大豆だ。大連に農事試験場と中央試験所が建設され、前者は大豆の品種改良や栽培試験、後者は大豆の利用研究。
6.大豆蛋白質による人造繊維、水性塗料、速醸醤油製造法の技術展開、大豆硬化油、脂肪酸とグリセリン製造法、レシチンの製造法、ビタミンB抽出、スタキオースの製造法を確立した。バイオ燃料の研究も世界の先鞭をきった。満州全土に90試験所、研究報告は約千件、特許350件、実用新案50件だ。
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