ある女子大教授の つぶやき

日常の生活で気がついたことを随想風に綴ってみたいと思います。
新たな時代の展開を見据えて

204.新たな時代の展開を見据えて
1.「保護主義は繁栄と強さに結びつく」という演説のポイントを NHKは外した。露骨な偏向報道で 日本国民を新時代において「目隠しをして交差点を渡らせる」誘導をした。世界的に行き過ぎた グローバリズムの是正が始まっているが、その事実を知らせない。
2.TPPは正式に米国が離脱表明したから発効しないことが確定した。日本では政治家や財界では、米国が批准しなくてもTPPは消滅しないから 辛抱強く待つとの発言が多い。歴史は英米から回り、 最後まで取り残されるのが日本と独だ。 グローバリズム最大の被害国は日本であることを認識しよう。

3.1980年頃には、高度成長期を経て、何とか石油危機も克服し、日本は多少の効率の悪さを感じながらも、一億総中流という低格差社会を実現し、産業界では日本的品質管理や護送船団方式で、欧米から社会主義みたいなどとからかわれながらも安定したシステムを確立していた。
4.ハーン教授など米国の学者からは21世紀は日本のものなどと煽てられ、多少の気恥ずかしさを感じながらも、この社会は日本古来の文化や伝統に根ざしたもので、できるだけ維持すべきものとの自信はなかったものの、戦後35年にして漸く到達できた安堵感もあった。

5.その当時、米国はベトナム戦争後遺症で双子の赤字、英国は労働党政権の残した英国病に苦しんでいた。1983年6月にG7が米国のウイリアムズバークで開催され、主題は対ソ連対策だったが、レーガンとサッチャーは中曽根に耳打ちして、日本だけ良くてもG7の結束強化とはならないと呟いた。
6.帰国した中曽根首相は、現在のトランプと全く同じ言葉「バイ・アメリカン」と呟いた。84年4月にNYへ赴任したてから間もなく、車メーカーから米国部品購入ミッションが尋ねてきた。米国から部品を購入するという。使えなくてもどうでも良いから、兎に角、米国からモノを購入するのが使命と言う。

7.赴任した時、270円だったドルは翌年のプラザ合意で180円となったが、これでも日本製品の輸出の勢いは止まらなかった。ここで米国は金融政策で日本潰しの手を打った。それがバブルだ。英国は、日本的品質管理の崩壊を狙って、ES規格をISOへ持ち込み、ISO9000番とした。
8.つまり、米国は金融、英国は規格というグローバル化で日本の勢いを殺ぐ手を打った。外圧に弱い日本では、当時、やはり欧米には従わなければならないというムードがあったのだろう。その結果は、未だに尾を引いている。この間、米国株価は5倍、GDP2倍だが、日本では株価は0.5倍、GDPは横ばいだ。わが日本はグローバル化最大の被害国なのだ。

9.英のEU離脱、米の保護主義で日本も目が覚めたはずだ。これからは、再び、日本独自の新システムを堂々と再構築し、2050年には、やはり21世紀は日本のものだったとの目標が投げかけられている。日本独自こそが最も重要なのだ。外に対して物分りのよさ、謝罪微笑外交などは捨て去ろう。ここで改めて、トランプに感謝すべきだ。
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ライデンのこと
1.雷電為右衛門は大相撲史上、古今未曾有の最強力士だ。生涯現役最高位としての大関を貫き通した。当時の横綱は名誉職で、名誉よりも相撲が好きでその道を選択した。大鵬の幕内勝率は83.8%に対し、雷電は勝率96.2%だった。しかもあまりに強すぎたので、張り手、鉄砲、閂は禁じられていた。

2.雷電の生まれは1767年で、長野県東御市の出身だ。豪農の子で、幼い頃から体が大きくて力が強かったので、相撲好きの隣村の庄屋の目にとまり、寺子屋で相撲や読み書きなどを勉強した。雷電の書が残っていて、極めて几帳面な教養人らしい字だ。18歳の時、巡業に来た浦風親方の目にとまった。

3.苦しみが大きいほど、手に入れたものを大切にするようになる。親方は雷電を、何ものにも動じない、本物の力士に育てたかった。イチローもプロ入り当時、比類ない実力を認められていながら、あえて二軍に落とされた。監督もコーチも、イチローの実力を知っていたが、二軍に落としていた。

4.才能をもった者であればあるほど、ホンモノに育てるというのは、とても大変だ。雷電を育てた浦風親方は、雷電の素養をはじめから見抜き本物の力士に育てるため、いつ幕内に出しても全勝間違いなしとわかっていながら6年間も見習い力士のまま据え置いた。相撲だけでなく、学問も人格も鍛えた。

5.1791年、雷電は第十一代将軍徳川家斉から天下無双の称号を授けられた。引退までに通算28回の優勝という前人未踏の大偉業を成し遂げた。生涯の勝数の254勝も年2回だけ、しかも一場所が10日制だった。身長197cm、体重169kgで、ボブ・サップと同じくらいだ。色白の美男子だった。

6.日本武道の精神は「心・技・体」で何ものにも負けない強い心を鍛え、技を磨き、結果として体力が身につく。西洋の格闘技は力と技で、筋力があり技がきれて試合に勝てればそれで良い。人柄は問題にならないから試合に勝つとガッツポーズをして猛獣のように吼え、今の白鵬のように勝ちを誇る。

7.日本は支那や韓国からみると「わけのわからない国」なのだ。彼らが喉から手が出るほど欲しいもの、歴史、伝統、教養あふれる国民、おかみを信頼する従順な国民、安心して生活できる清潔な町、豊かで安心して食べられる食品、便利な暮らし、高い経済力等々、それら全てを日本は持っている。

8.ところが日本人は、ちょっと脅かせば直ぐにヘコヘコするほどおとなしくて弱腰だ。彼らはこんなにスゴイと常に言い張っているが、世界中から高く評価されているのは、いつも日本だ。だから勝手な妄想をして日本に対抗心を抱き、これでもかというほど日本を貶め、自分たちのすごさを誇ろうとする。

9.現役のプロレスラーが、体を鍛え、試合に勝って、俺はこんなに強いんだと内外にアピールしているのに、世間はいっけんヒ弱な日本に軍配をあげている。だから彼らは、余計に意固地になって俺は強い、俺はすごいんだとする。そういう彼らの臭みそのものが、人々の心を離れさせているのに気付かない。



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幕末の美しい日本
1.江戸から明治にかけて来日した西洋人による日本の情勢、風景、人間模様などの見聞記が沢山ある。共通して見られのは、日本人には当たり前のことにずいぶんと驚き、感心して思いを深めている描写だ。日本人には当たり前のことだ。

2.エドワード・モースは、旅館で財布と時計を預けた際に、仲居さんがお盆の上に乗せて部屋の畳に置いただけなので、あきれながらも不安で仕方がなかったが、それから1週間ほど他へ出かけて戻ってみると、時計と財布がそのままあったことに心から驚いたと書いている。

3.イザベラ・バードは、蒸し暑い夏の宿場の休息所(駅舎)で、おかみさんが団扇で何時間もずっと扇ぎ続けてくれるので、チップを渡そうとしたところ「そんなものを貰うのはとても恥ずかしいことだ」と拒否されたと記している。いずれも明治時代初期の頃のことである。

4.当時の日本人は、彼らがなぜそんなことに驚いたり感心したりするのかわからなかった。西洋人たちは、そこに「日本の心」を見出していた。現代日本にやってきた呉善花は東洋人だし、彼らとは百数十年も時代を隔てているのに、よく似た体験を通して「日本の心」を見出したかのような感覚になった,

5.渡辺京二著『逝きし世の面影日本近代素描 I 』(葦書房/平凡社)によって「素朴で絵のように美しい国」(ウェストン)、「ほっそりと優美な乙女と妖精の住む、こわれやすい小さな驚異の国」(チェンバレン)の西洋人たちの感銘の言葉が異国趣味による賛辞ではなく心から日本を「夢のような国」。

6.「幕末・維新の時代に訪れた外国人が見た古きよき日本の姿」だ。単に近代化される前の遅れた社会に見られる素朴さということではなく、世界的にも著しく文化の発達した国家、国民が作り上げた希有な文明なのだ。俗に「江戸文明」「徳川文明」と呼ばれている当時の日本の社会が汚れのない美しいもの。

7.逝きし世の面影日本近代素描 掬亙婬二・著  葦書房  1998年刊http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/Yukishiyo.html …
ウェストン(1861〜1940)も、1925年に出版した『知られざる日本を旅して』の中で書いている。

8.ウエストン「明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になるのは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることはけっしてあるまい。」

9.アーノルドは日本を「地上で天国paradiseあるいは極楽lotuslandにもっとも近づいている国だ」と賞讃し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しくその魅力的な態度、その礼儀正しさは謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである」と述べた。

10.リンダウも長崎の農村での経験「私はいつも農夫たちの素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れない。火を求めて農家の玄関先に寄ると、直ちに男の子か女の子が火鉢を持って来てくれる。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。

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福沢「脱亜論」の真実
脱亜論の真実


1.昭和四十七年の日中共同声明そして五十三年の日中平和友好条約以来、 日中友好を掲げて巨額な援助を続けてきた。その結果は世界中で最も反日的かつ暴力的な軍事大国中共となった。
2.韓国に対して昭和四十年の日韓基本条約締結以来、巨額の資金を供与し、そのお陰で韓国は飛躍的な経済発展を遂げた。その結果、 韓国大統領は「日本に対する怨みは千年たっても消えない」と言い、在韓国日本大使館と領事館の前やNYの街中に、 日本を辱める慰安婦像が設置されている。

3.戦前の帝国陸軍や戦後の外務省には、支那・朝鮮に関する専門家が多数養成されていた、地政学的な情報や食糧事情や経済状況に関する分析には優れた知見を持っていた。だが当該民族の本質や特性などの解明、その知見に基づく国策決定に関し無能だった。戦前戦後共に国策を誤ってきた。
4.福沢諭吉の「脱亜論」に「支那と朝鮮は一より十に至るまで、外見の虚飾のみで、実際には真理原則の知見がないだけでなく、道徳もなく不廉恥を極め、なお傲然として自省の念もない連中だ。その支那朝鮮に接する方法は、西洋人がこれに接する風に従って処分すべきだ」と、要するに犬猫と同じ様に扱えだ。

5.戦前も戦後の今日も、この福沢諭吉の認識と結論に従って国策を決定すべきであった。相手の本質と特性を観ないで「援助」してはならないのだ。援助を決定した者が自分の懐からその金を支払っておれば当然そうしただろう。
6.数人の韓国人老売春婦の為の十億円の支払いも中共に対する数兆円の支払いも、 総て、その支払いの決定をした者がその金を支払わないから、 同じ過ちを他人事のように繰り返してきた。その過ちを繰り返した者は人事異動でどこかに行方をくらます。過ちを改めるに、今からでも遅くはない。

7.脱亜論の前後に正しい国策決定の指針を示した三人は、情報将校の福島安正中佐(大将)、 孫文らの目指した支那革命の支援者内田良平、そして文学者魯迅である。 百年前に彼らが言ったことは、 現在にも通用する。 何故なら、支那と朝鮮は何も変わっていないからだ。
8.福島は、 明12年、清国を偵察し10年後の独駐在武官後、シベリアを単騎横断して日本に帰着した。清国偵察後、「隣邦兵備略」に「清国の一大弱点は公然たる賄賂の流行で百害の根源をなすが彼らは少しも反省ない。皇帝、大臣より一兵卒まで官品の横領、横流しを平然と行う。

9.この国では、贈収賄をやらない者は一人もいない。これは清国のみならず古来より一貫して変わらない歴代支那の不治の病である。このような国は日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない。この風習は現在でも同じだ。国家主席にいたるまで、地位はすべて金で買う国だ。
10.内田良平は、支那の革命を目指して大陸を奔走し孫文らを物心両面で支援した。多くの裏切りの中で本質と特性を見抜き、 日本人の思い込みによる支那観の危険性に気付き、 我が国の対支那政策について大正二年に「支那観」を世に問うた。

11.内田「金銭万能が支那の国民性の持病で、 堂々たる政治家を自任する者も美辞麗句とは裏腹に振る舞いは汚れ、 彼らの心事が巷の守銭奴と同じだ。支那人の金銭への執着は、水火も辞さないほど猛烈な勢いだ。」
12.内田「支那人の金銭への執着には、水火も辞さないほど猛烈な勢いがある。 彼らは戦闘での卑怯な振る舞いとは裏腹に、 弾丸雨飛のなかに飛び込み、死の危険を冒して戦死者の懐中を漁る。 加えて、支那人は食人族でもある。 支那人は詐欺を義務とさえ考えているようである。」

13.魯迅は明治時代に日本に留学した支那人作家で「狂人日記」の中で、支那人の食人に関して書き、その末尾を人間を食ったことのない「子供を救え」という悲痛な叫びで結んでいる。四千年来、絶えず人間をくってきたところ、そこに長年暮らしてきたんだということが、 今日やっとわかったと記す。
14.魯迅「兄貴が家を管理している時に妹は死んだ。奴が料理に混ぜて、俺たちにも食わせなかったとは言えない。知らぬ間に妹の肉を食わせられなかったとは言えない。四千年の食人の歴史をもつ俺だ。今わかった。真実の人間の得がたさだ。人を食ったことのない子供を救え(一九一八年)」
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量子エンタングルメント01
1.量子力学の世界では不可思議な現象が多いが、その中でも「エンタングルメント」は直感ではなかなか理解出来ない。エンタングルメントとは、二つ以上の離れた系の間に見られる量子力学特有の相関関係で、二つの粒子が「波動関数」でもつれた状態にある時(量子もつれのペア)、二つの粒子を離しても、その「もつれ」がそのまま続く。粒子の状態は観測を行うまでは分からないが、一方の粒子を観測をすると、もう一方の粒子の状態も影響を受けて、観測をしなくともその状態が分かる。この影響は光より速く瞬時に伝わるので、光速を超える物質は存在しないと言う特殊相対論に矛盾するように思える。

2.最初に指摘したのは、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンでの三人で、頭文字を取ってEPRパラドックスと呼ばれた。アインシュタインはこれを「不気味な遠隔作用」と呼び、「自然の事象が本質的に確率的である」と主張する量子力学の基本的な考え方に反発し、「神はサイコロを振らない」と量子力学を否定し続けたが、間違っていたのはアインシュタインの方だった。

3.電子はマイナス電荷と小さな質量の他に、スピンという性質を持つ。この電子のスピンは、実験で1/2である事が分かっている。このスピン状態には2つあり、便宜上「上向き」と「下向き」と表現される。1つの電子は同時にこの両方の状態を持つ事が出来き、観測するまではどちらの状態にあるのかは分からない。しかし観測すると、重ね合わせ状態からどちらかの確定した状態へと変わる(状態の収縮)。状態の重ね合わせという概念は理解しがたく、「シュレーディンガーの猫」という有名なパラドックスを生んだほどだ。この電子1粒子の重ね合わせが2つペアになった状態が量子エンタングルメントである。一方の粒子を観測してその状態が分かれば、もう一方の粒子の状態は観測するまでもなく決まってしまう。たとえば、A粒子が下向きだと観測されれば、その瞬間B粒子は上向き状態に決まる。

4.エンタングルメントの関係にある2つの粒子は、どんなに離れていてもこの性質を示す。2粒子の間に何かの作用を伝達するような粒子があるわけでもない。完全なもつれにある2粒子は、何光年も離れていても一瞬で伝わるので、何らかの粒子が媒介しているのなら、その粒子は光の速度を超える事になり特殊相対論に矛盾する。現在の理論では説明が出来ない。
5.夫婦が一人ずつ東京と大阪に旅行した時、大阪に行ったのが女と観測されれば、東京に行ったのは男と瞬時に分かる。これも相関だが、二人がどちらに行くか決めて別れた時点でコトは終わっていた。これは古典的相関と呼ばれる。ところが量子論では二つの粒子が別れた後も見えない赤い糸で結ばっている事がある。たとえばベル状態と呼ばれる二つの光子は、片方が偏光フィルターを通過すれば、もう片方は通過しないという相関がある。これだけなら古典相関だが、大阪で誰かが全然別の偏光フィルタで篩いにかけるという操作をすると、東京の光子はその篩いを通らない性質を持つように変わる。これをもっと進めて組合せ事象を吟味すると、個々の確率分布や合成確率分布などで説明できない事象、つまりどう考えても後ろで赤い糸で結ばっているとしか考えざるを得ない事象が出てくる。これはエンタングルメントが古典論で説明できない一例だ」・・・。
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昭和史の真実
1.今から80年前、1936年、一部の陸軍の勢力により首相官邸などの政府の中枢が次々と襲われた「2.26事件」だ。その背景には大恐慌・農村の窮乏など暗いニュースが飛び交う時代背景があった。その後、日本は第二次世界大戦へ突入して行った。教科書には、そのように書いてあるが理解し難い。

2.1932年の515事件、遡れば騒擾や市民への攻撃を行なった事件など日本軍不名誉戦記は維新後、数多い。昭和になってから政府要人、天皇にまで届くようになり、遂には大戦へと踏み込んだ世界史の中での背景が教科書の記述では不十分だ。第一次大戦後の露革命と密接に関係することを理解すべきだ。

3.共産主義思想を世界に伝播させる戦略で、日本でも『M-E全集』全27巻が改造社から刊行されたのは1928年から、『レーニン叢書』24巻が白揚社から1927年だ。当時の大学教授などインテリには爆発的に売れたという。農村社会の貧困、工場労働者の搾取などで、この思想の浸透しやすい環境だった。

4.1928年コミンテルン大会でレーニンの敗戦革命論「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対せず進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力せよ」との決議が採択され、この決議の通りに共産主義の影響を受けた若人が軍人となることを志し、士官学校等にもかなり入学した。

5.インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めには『赤にあらずんば人にあらず』だった。指導的な思想雑誌は左翼よって占められていた。インテリは武器を持っていなかったから、その運動は弾圧されたが、その風潮が兵営の厚い壁を浸透して、その中の武器を持っている人々に反映した。

6.青年将校たちは軍人の子弟が多く、そうでない者もおおむね中産階級の出身で農民でも労働者でもなかった。社会の不正を憎み苦しんでいる人々に同情する熱情からだった。インテリは天皇と祖国を否定したが、国防に任ずる将校たちは肯定した。ただし既成現存の『天皇制』のそれではなかった。
7.彼らが考える『天皇制』の『天皇』のポストに就くべき人物は、昭和天皇ではなく、スターリンのような人物であった。当時の日本軍には共産主義思想がそれほどまでに浸透していた。昭和7年の五・一五事件の檄文から、この事件の首謀者は共産主義思想の影響を受けていたことが明らかである。

8.レーニン「政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である。共産主義者はいかなる犠牲も辞さない覚悟がいる。あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。共産主義者は合法組織と並んで、革命の際に役立つ秘密の機関を沢山作れ」。
9.「終戦の詔勅」を放送される直前の8月14日深夜から15日にかけて、天皇が吹き込まれた玉音放送のレコード盤を奪い取って終戦を阻止しようとした陸軍の将校らのメンバーがいた。彼らは師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城を占拠した(宮城事件) 。ご聖断に従わない右翼はいない。

10.リーダー格には共産主義者がいて、レーニンの『敗戦革命論』を実践してわが国の体制を徹底的に破壊して共産革命に導こうとした。ソ連は8月9日に対日宣戦布告をし満州、樺太、朝鮮、千島に侵攻を開始したが、ソ連が日本を占領するまで終らせない。彼らは宮城を占拠し戦争を長引かせようとした。

11.日中戦争勃発から開戦直前まで首相を務めた近衛文麿が終戦の年の2月に天皇に上奏し戦争の早期終結を唱えた『近衛上奏文』がある。この上奏文の中で近衛はわが国の左翼分子が我が国を第二次世界大戦に突入させたことを明確に書いている。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html … …

12.日本のみならず、米国WHにも共産思想は入り込み、ルーズベルト大統領までソ連の影響を受けていた。そして、遂に、日本を挑発するハルノートを送りつけた。GHQにも共産主義者が入り込み、日本の左翼運動を煽動した。マ元帥は朝鮮戦争で、はじめてソ連の意図を読みとり、日本が共産主義の防波堤となっていたことを認めた。だが、マスコミや出版社などには未だに、このときの影響が残存して、日本社会に陰を落としている。
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プーチンの思う壺か
1.トランプがモスクワのホテル滞在中に、複数の売春婦を部屋に呼んだ際の様子を撮影したテープだ。こうした情報は裏付けされていないし、トランプ、ロシア側双方が完全に否定した。真偽は別にして、テープの存在を含む情報はDCの外交筋や記者、議員らの間を駆け巡った。CNNが報じた。
2.女性の情報員が外交官らを誘惑して性的関係を結び、これを相手の弱みとして脅迫し機密情報を要求するハニートラップ(蜜のわな)、旧ソ連時代に諜報活動として頻繁に使われてきた。冷戦時代のモスクワに赴任する日本の外交官に外務省から必ず事前にハニートラップに対する厳しい注意が与えられた。

3.1999年にはエリツィン大統領側近の新興財閥らに対する汚職疑惑捜査に乗り出した検事総長について、全裸の若い売春婦2人と一緒にベッドに入っている検事総長らしい男性が写ったテープを国営テレビが放映。検事総長は最終的に解任された。
4.テープの撮影とリーク(情報漏えい)を指揮したのは、当時新興財閥側と深い関係にあり、ロシアの情報機関「連邦保安庁」(KGBの後身)トップにあったプーチンだったとされる。プーチンはこうした「貢献」が評価され、その後首相、大統領へと出世の階段を上っていった。

5.トランプのテープの真偽は全く分からないが、ロシアにはこうした伝統があるのは事実だ。もし万が一、ロシア側がそうした「切り札」を握っているとすれば、トランプ新政権の対ロ政策は著しい制約を受けることになる。トランプは、健康、スキャンダル、テロのいずれかで1年は持たない。
6.クレムリンが米最高司令官について「コンプロマート」(失墜させられる情報)を持っている可能性はあり得ると、CIAは考えている。これに加えてCIAとFBIを含む共同タスクフォースは、ロシアがトランプの会社や選挙チームに資金を送った疑いについて捜査している。

7.露が恐喝材料にできる録音や録画の存在は、英情報機関の元職員が書いた複数の報告書のひとつに含まれていた。MI6職員としてモスクワの英国大使館に派遣されたこの人物は露との取引について助言するコンサルタント会社を経営。KGBの後継組織FSBにいる旧知の情報源と話をして情報を得ている。
8.トランプはモスクワにあるリッツカールトンHの大統領スイートで複数の売春婦と一緒にいるところを撮影された。トランプ攻撃の材料を調べるよう元MI6職員に依頼した、ワシントンの政治調査企業から報告書にある。大統領選の最終週にBBCは内容を伝えないことにした。



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グローバル化で日本を潰した米英は保護主義へ転向

グローバル化で日本を潰した米英は保護主義へ転向

1.グローバル化先進国で、日本的システムを崩壊させた米国は、トランプの登場で、米国第一を掲げて保護主義へと転換する。思えば、1980年頃に日本的風土に根ざした日本的システムで、一億総中流とか護送船団方式を編み出し、米英からは社会主義みたいだなどと揶揄された日本だ。
2.40年も前に、トランプのいうシステムを完成させていた課題先進国日本なのだ。トランプの登場を契機に、日本的システム第二弾を構築していこう。今度は誰にも文句はつけさせない。そうすれば、2050年には、やはり21世紀は日本のものだったという米国の学者の言う通りの国に出来る。

3.1997年11月24日は護送船団方式崩壊の象徴的事件が起きた日だ。山一證券倒産で野沢社長が記者会見で泣き崩れた。銀行は合併と再編を繰り返してきた。QCについては、様々な品質事故を起こしてきたし、最近も建設工事、農産物に至るまで、様々な不祥事を続けてきた。
4.未来学者がご託宣してくれた「21世紀は日本のもの」を実現する最後の機会がきている。未来を展望すれば、少子高齢化、自然災害、反日左翼運動などを乗り越えた先には希望の光を見ることが出来る。日本の資本と頭脳と中小企業の技術力、背後で支える大企業のシステムと構想力だ。新たなる船出だ。

5.高度経済成長時代も終わり、落ち着きを取り戻した1980年頃の日本は、多少の効率の悪さはあっても、日本の社会はある種の安定的なシステムに入っていた。主として、生産システムと金融システムで、前者は日本的品質管理、後者は護送船団方式と言う言葉だ。21世紀は日本のものと煽てられた。
6.ヴォーゲルとカーン先生から称賛の言葉を頂戴し、むしろ戸惑ったのは日本側かもしれない。何故なら、そのようなシステムになることを目標としてきたわけではなく、日本で古来から育まれてきた考え方の延長上にあったからだ。その背景には、暗黙の了解、以心伝心、共存共栄、四海兄弟などがあった。

7.米国の高名な未来学者から持て囃されて、多少は高揚した感じも日本には生じていた。その当時、NY勤務の辞令を手に、関係する企業、大学などに挨拶周りをしたが、大方は「今さら、米国から学ぶ事はない」などと言う反応を覚えている。赴任したNYの街は犯罪の横行する心地よいものではなかった。
8.あれから30年、日米の立場は逆転した。株価は0.5倍に対して、米国は5倍と言う差だ。GDPは殆ど変わらないが、米国は4倍だ。双子の赤字に沈んでいた米国は、飛躍的に経済成長した。あの日本的なシステムは完全に崩壊した。品質管理QCはISOにとって代わられ、金融は競争原理とされた。

9.それでもトランプには不満のようだ。それならば、再び、日本的システム第2弾を構築して、古来からある日本文化に深く根ざした理想的なシステムを世界に送り出して見せよう。先ずは、足元の日本列島を見直す。何しろ、世界最大の債権国なのだ。勇気と希望を若者に持たせよう。
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満洲国の歴史
1.満州はシナの一部では無く、万里の長城がその証拠で、もともと満州は満州族の土地であり、皇帝である溥儀が満州国の皇帝になるのは極めて自然だ。満洲事変は侵略ではなく自衛のための軍事行動であった。満州には清や列強から承認された日本の特殊権益が存在した。
2.日露戦争で日本が負けたら満蒙は露領になっていた。中華民国や張作霖は日本の勝利に何も貢献しなかったのに日本が10万の戦没者、20億の戦費を費やして得た権益を、日本人が長年かけて開拓した土地を「満州は中国だから出て行け」というのはとうてい受け入れらないことだ。

3.満州は長城の外で満州族の土地だ。もともと満州に合法的に駐留していた関東軍は特殊権益を守ろうとしただけだ。中央政府の中華民国も現地軍閥の張学良も犯罪に対する治安維持能力と条約遵守能力がなかった。民国の匪賊は二千万人、正規軍の10倍、社会が安定しないと、近代経済社会の確立は不可能
4.満州国は日本の支援によって政治的に安定した地域となり、航空機まで製造する近代産業国家に発展した。豊満ダム完成後見学に来た比国外相は「比国は西班牙植民地として350年、米国支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つもない。満州は建国10年にしてダム建設をしたと称賛。

5.1951年に建国後、毛沢東は「かりにすべての根拠地を失っても東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語った。実際戦後の満州は中国の重工業生産の九割を占め、中華人民共和国を支えたのは満州国の遺産であった。
6.リットン報告書に満州事変は「一国の国境が隣接国の軍隊により侵略せられたる如き簡単な事件でない。何となれば、満州においては世界の他の部分において、正確なる類例を見ざる幾多の特殊事態が存在するをもってなり」とした。特殊事態とは、日露戦争後、続けられてきた中国人による排日と侮日の嵐

7.満州事変の16年前に米国は「居留民を保護する」という口実で中米のハイチを武力制圧し、19年にわたって居座った。それに比べると日本の行動は極めて穏健なものだ。南米のエルサルバドルなど、23カ国が満州国を国と承認した。当時の独立国家は80ほどだから、かなりの数である。
8.「二十一箇条要求」は1915年1月、大隈内閣が中華民国大総統袁世凱に提出したもので「中国の主権を著しく侵害する要求で、最後通牒を突きつけてむりやり承諾させた」というのが定説になっているが、それらの要求が他の列強諸国に比して特に過酷なものではなかった。



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パラオ共和国
1.パラオは南太平洋に浮かぶ、大小さまざまな島からなる共和国で戦前まで日本の「委任統治領」てだった。第一次大戦後、国際連盟の指定を受けて日本が統治していた。白人諸国が有色人種諸国を統治する、というより植民地として支配する、国際法上の正当性を与えるための制度だ。
2.植民地ではなく国連からの正式な委任によって日本が統治したものだ。日本はパラオに、教育、文化、行政、法制度、都市インフラにいたる、あらゆる援助を提供した。そんな事よりも遥かに大きなものを日本はパラオに残した。パラオの人々は、今も大切にしてくれている。

3.大東亜戦争でパラオ南部のペリリュー島が太平洋防衛上の重要な拠点だった。1944年9月、ニミッツ提督の指揮下の米軍が迫ってきた。島民達は白人統治時代の悲惨さと異なる日本統治を身をもって経験していた。900名の島民達は全会一致で日本軍とともに戦うことを決めた。
4.この事を守備隊長、中川州男陸軍大佐てに伝えたところ「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ」と大声を出した。彼らは「日本人に裏切られた」という思いだった。日本軍が用意した船で、島民たちがパラオ本島に向かって島を離れる日が来た。日本兵はひとりも見送りに来ない。

5.船が島を離れてから船上にいた島民たちは「日本軍は我々島民を戦火に巻き込むまいとしたのだ」と理解した。日米の戦闘が開始し、島に日本軍は1万人、米軍は総員5万で火力差は約百倍だった。3日で終わるとされた戦いは2カ月半も継続した。
6.戦闘が終わったあと、日本兵の遺体は放置されていた。戦闘終結から暫くして、島民たちが島に戻った。彼らは島中に散らばる日本兵の遺体をきれいに片付け、埋葬してくれた。戦後、パラオは米軍信託統治領となった。「パラオ共和国」と独立したのは1981年だった。

7.国旗は日の丸と同じデザインで、赤は黄色、白は青色だ。黄色い円は月を表し、しかも中心から少しズレている。日本に失礼だからと、わざと中心をはずしている。これはパラオの人たちの慎み深い態度を表している。日本人が失ってしまった魂がこの国には生き残っている。天皇が訪問した意味
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